この映画と出会うきっかけは、西川町応援団の総会に出席した時にさかのぼります。この映画が、出来るかどうか?わからないが、素晴らしいい女性のお医者さんの物語があるのでこれを映画で残し後世に伝えたいと西川町の山菜料理で有名な玉貴の阿部さんから聞きました。その時、わずかではありましたが、協賛したのを覚えています。
その後も資金が、なかなか集まらず苦戦していることも聞いていました。そんな中、クランクインが、決まったこと 映画が、先行で山形で観られるなど徐々に前進した内容に変わり全国で観れるようになったのです。
仙台でも フォーラム仙台で上映が、決まり先日、観てきた次第です。この映画、2月26日(金)まで観れますので是非!ご覧頂きたいです。
昭和の初めまで山形県大井沢には、診療所が、無く隣町まで行かなければならない状況でした。
その問題を解決するために父である大井沢村の村長の娘の周子(ちかこ)さんを東京女子医専(現・東京女子医大)に通ったそうです。
周子さんは、卒業し医者になったばかりの状況で父から「ハナシタイコトアル スグカエレ」と言う電報で戻り大井沢で医者になることになるのですが、彼女は、東京で医療に携わった後、実家に戻るか東京に残るか?決めたいと思っていたようで
今のまだ未熟な医療で地域の人々の助けになるか不安であり驚いてもいたようでした。
映画の内容は、女性が、医者として働くことに故郷の方々から反感をかったのでは?と思っていたのですが、実際は、医療のことを知らない人々が、拝み屋さんに頼めば治ると思っていたり 医療には、とんでもないお金がかかるから今の暮らしでは、診療所へ行けないなど 彼女は、貧困と無知との戦いだったのだと映画を観て痛感しました。
映画の中には、西川町の美しい自然が、折なしており自然の中で生きる幸せと冬の極寒の厳しさも伝えておりました。
素晴らしい映画で久々に泣けましたよ。
そして最後に協賛した方々のテロップが、流れ始めたのです。あまりの多くの方々が、名前でしたのでもしや?私も?と思っていましたら・・・私の名前を見つけました。
こんな素敵な映画に協賛することができてよかったと思った後に私の名前を見つけただけにほんと心温まるものがありました。(感謝)
「オーナーの個人的な話」カテゴリーアーカイブ
梅田川
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加藤 晋 作品展
フェイスブックを始めました。
いしゃ先生
いしゃ先生と言う映画を皆さんに知って頂き是非、観て欲しいと思います。
この映画は、西川町で力を入れているだけあって私の耳には、まだ映画化されるかどうか分からないが、寄付を集めて是非、作りたいと言うところから知っていました。
私もこの映画化が、決まり嬉しく思っています。そして全国でも放映されることが決まったと年賀でお知らせを頂戴しました。
宮城県では、フォーラム仙台にて 2016年2月13日(土)からです。是非お見逃しなく!(笑顔)
あらすじ 昭和10年、出羽三山の主峰・月山の麓を、急ぎ歩く女性がいた。志田周子(ちかこ)、26歳。
故郷の父から『ハナシタイコトアリ スグカエレ』という電報を受け取った周子は、取るものもとらず帰郷したのだ。
山形の農村出身の彼女は、努力して東京女子医専(現・東京女子医大)に入学し、医者になったばかりだった。
——風が鳴く峠のてっぺんに立つ、周子。眼下に懐かしい景色が広がった。8年ぶりの美しい故郷だった。久しぶりの実家。
幼い弟たちは周子に甘え、母・せいが手料理でもてなす。温かい出迎えを周子は喜ぶが、父・荘次郎の様子がおかしい。
大井沢村の村長だった荘次郎は、周子の了承も得ぬまま周子名義で診療所建設の予算を通し、すでに建設が始まっていたのだ。
「頼む、周子。3年だけお前の人生を俺にくれ。
その間に必ず代わりの医者を見つけるから」父に頭を下げられた周子は、怒ることはできなかった。
無医村のこの村に医者を置きたいという父の願いは、誰よりも理解していたから。
まだまだ未熟な自分が一人で診療所の医師など
つとまるのか……不安を抱えつつ、周子は3年間だけ頑張ってみようと心に決める。東京にいる想い人の存在を胸に秘めながら。
——自身に降りかかる数々の試練に耐え、過酷な運命にも負けず、昭和37年にこの世を去るまで、たったひとりで村人の命を守った「いしゃ先生」の愛と勇気の物語。